グライダー教官になる

石津謙介は、大学時代オートバイに凝り、友人たちと車を買って自動車部を作り、白タクをやり、それが盗まれてしまうと、スッパリ諦め、なんと明治大学に同志は四人で飛行機部を作ってしまう。(最後まで関東学生航空連盟のOBだった)
色々な資料を集めて飛行機について勉強し、それから実地訓練。
立川の飛行場へ行き貸し飛行機で練習したが、メッタヤタラに金がかかるので残念ながら途中で断念。その頃はダンスに夢中で、そちらの方にお金を使うことが多かったせいだ。

資金不足のために中断した大空を飛ぶ夢は、岡山へ帰ってからグライダーという形で実現する。当時はグライダーなんて、どこにも売っていなかったから、友だちを集めて、まず造るところから始めた。グライダー博士で有名な、ドイツのゲッピンケン博士の著書を取り寄せ、教本と首っぴきで木組に布を張りつけて、こつこつ造り上げていった。
そして謙介はテスト・パイロットになるべく操縦法を一生懸命勉強した。そして日本で61番目というグライダー免許を取得する。
手造りのグライダーは完成と同時に大阪の航空局から航空官が来て、免許のための、厳重かつ厳密な検査が行われ合格。それからもっと性能のいいグライダーを、というので4機ほど造ったという。
岡山の練兵場で大きなゴムを牽引に使って(カタパルトで)飛ばしていた。
昭和11年頃、日本はすでに戦時体制に入っていた。大阪のスポーツ・メーカー美津濃では、航空訓練のためグライダーの量産を始めた。謙介はグライダー教官として美津濃に招かれ、岡山県下の中学校の先生を100名くらい集めて、夏期合宿訓練をやったが、その中には、謙介が岡山一中でお世話になった先生もいたという。

謙介が天津へ移住した時も、岡山でグライダーの教官をやっていたことから、中学校の軍事教官として、特別待遇を受けていた。
このため戦地への召集は免除になり、いつでも、どこへでも好きなときに行ける、という特権も持ちあわせていた。まさに謙介の多芸が身を助けた格好になった。戦後も空を飛ぶ興味は尽きず、昭和39年には母校明治大学飛行機部にグライダーを1機寄贈した。

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