がらくた集め

どうも、コレクションの頁というのが引っかかる……。と、いうのは、ボクには、いわゆるコレクション趣味がない。書画や骨董を収集してながめていたって時間の無駄だと思うし、美人画をながめているよりは、本物の美形とお話をしていた方がなんぼか楽しい。だいいち、あのコレクション、という趣味は金がかかって仕方がない。そんな事にお金をかけるくらいなら、ボクは、そのお金で美味い物をかたっぱしから食べて、自分の身体の一部にしてしまいたい。
そんな訳で、ボクにはコレクション趣味が無い。が、無いにもかかわらず、集まってきてしまう"モノ"達がある。これらは、ボクの意思とは別にその時点時点て必要でありボクの方からではなく、そのモノ″からの呼びかけによって集よったモノ達であり、もちろん時に応じて、現往でも使ってやっているのだから、これらのモノは、同じ形態のモノで、数も多いにもかかわらず、ボクはコレクションとは考えていない。たとえば包丁とか、ワインのコルク抜きとか、友人が描いた絵とか、つまり、そういった類のモノ達なのである。だから、私のコレクション、なとという企画は土台ボクには不向きなのである。
しかし、何らかのかたちでこの頁を理めなければならない責任がある。で、これはコレクションというよりは、ボクの習癖といった方がいいのかもしれないが、これはボクの意思で集めている、といったものが唯ひとつだけある。これは、①集める対象が一定していない。⑧集めた物を使う予定もない。③その物を集めることによって、なんらかの利益を得る事がない。④その対象物を集める事に対して一切金銭を費やさない、という極めて結構なコレクションである。そんなコレクションが一体この世に存在するのか? と考えられる人もおみえだろうが、現にボクがヤっているから存在する。では、それは何か、というと、ちょっと言いにくいけれど、つより、拾得物のコレクションなのだ。早い話が拾ったものなのである。それも、今日は、何処かへ拾いに行こう、と考えて出かける訳ではなく、街を歩いていて見つけたモノに限られる。たとえば、ボルト、ナット、ワッシャーの古いのが落ちていると、ボクは必ずポケットに入れる。そんな古鉄類が木箱に一杯ある。で、それをどうするか、というと別にどうもしない。
海辺へ行けば、貝がら、船の金具らしき古鉄、ガラス玉、なとがコレクションとしてプラスされる。
山へ行けば松ボックリや木の切り株などを拾ってくる。で、この切り株は家へ持ち込んでのこぎりで引く。といって、それで何かを作る訳ではなく、真っ二つにしたら、その辺に転がしておく。
時にはカンザシなんてのを拾って、さて、このカンザシを落とした女性は、いかなる女性であるか、いかなるシチュエーションがあったのか、と頭の中でストーリーを構築する。このカンザシ一本で、その夜の酒がいつもよりグッと美昧くなる。ボクは海外ヘ出ても、おみやげは買わない主義。必ず何かを拾ってくる。それを見て、成田の税関の人が不思議な顔をするのを見てニヤリとする楽しみもある。


株式会社講談社 NEXT 1984 December P169
「Collection / ボクは、コレクションについて聞かれるのが苦手だ。
第一説明がつかない・・・。」より