紙屋の若旦那        
昭和7年、岡山に戻り結婚した謙介は、紙問屋の四代目として店をまかされる。
傍らで大阪美津野にグライダー教官として任命され、その仕事もしていた。
なに不自由ない若旦那暮らしであったが、東京で遊び暮らした謙介にはやはり何か満たされず、芸者遊びや、モーターボート、スキー、果ては遊びでタクシーの臨時ドライバーなどもやり、憂さを晴らしていた。やがて昭和10年に長男祥介が誕生、昭和12年には次男祐介が、そして14年には三男啓介と、謙介一家は家族5人の大所帯となった。
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昭和12年に日華事変が勃発し、日独伊三国防共協定が成立する。世界戦争の影が非常に濃くなった頃、本業の紙の統制も厳しくなり、謙介が四代目を務める紙問屋も月に半分くらいしか店を開けられない状態に追い込まれていく。
こうなるともう商売にならない、日本にいても仕方がないと謙介は考え始めていた。こんなときたまたま事件が起こる。
謙介がしげしげ通っていた芸者のお腹が大きくなったと騒がれ(後で大嘘と判明)、ほとぼりを冷まそうと中国の租界地、天津に1ヶ月ほど逃れることにした。
親友の大川さんの兄が天津で大川洋行という洋品店を開いており、それを頼って行ったのだが、謙介はスッカリ彼の地が気に入ってしまう。大川兄弟に「手伝ってくれないか」といわれたこともあって、謙介は一家を連れて天津に移住することを決心する。
昭和15年、謙介28歳の年だった。