昭和15年、天津へ行くなんてのは、まったく地の果てへ行くような感じだったらしい。
神戸から船で丸5日、船は塘沽の港に到着する。
その頃の天津は英国租界ありイタリア租界あり日本租界あり、世界中から人が集まる一大国際都市だった。
ヨーロッパ的な街並があるかと思えば、下町では餓死した死体が転がっていたりする。
日本人は戦争で景気がいいから、毎晩芸者をあげてのドンチャン騒ぎ。ロシア人はダンスに興じ、ユダヤ人クラブは不夜城。そしてそのそばでは戦争している、というまったく騒々しく混沌とした世界に、謙介家族は移住したのだった。
昭和15年、謙介・昌子夫婦に長男祥介、次男祐介、三男啓介の5人が落ちついたのは中国家屋を改造した洋館で、完全に洋式スタイルの住居だった。謙介が勤めることになった「大川洋行」は、日本租界の真ん中、曙街にあった。昭和2年に謙介の親友の大川照雄の兄正雄が始めた小さな洋品店がそのスタートだ。
そして謙介は、この中国の地で彼の終世の仕事となったファッション・ビジネスにかかわりだしたのだ。
当時、天津の日本租界は栄えに栄え、大川洋行は東京での三越のように、有名で発展していた。
クリスマスや大晦日には、店のネクタイが二千本くらいさっと売り切れてしまう。それ程の繁盛ぶりだった。ここまで大川洋行を発展させたのは、ひとえに大川と謙介のコンビネーションだった。大川が内部をまとめ謙介が外部、外国人関係の仕事に力を注いだ。外国人との工場を作ったり、紳士服だけでなく、婦人服、子供服、靴、鞄にいたるまで、全部自分でやったという。
イギリス人の洋服の専門家だちと親しく交際して、責重な資料や実物に接する機会も非常に多かったことは後年のファッション・ビジネスに大きく役立つことになる。
彼は岡山でグライダーの教官をやっていたことから、こちらでも中学校の軍事教官として特別待遇を受けていた。このため戦地への召集は免除になり、いつでもどこへでも好きなときに行ける、という特権も持ちあわせていた。
その頃、ふつうの日本人が外出する時には、国民服に戦闘帽を冠らなければならなかったのだが、謙介は外国人と会うときには、徹底的にオシャレを楽しんだ。世界の一流品が安く手に入ることもあって、謙介唯一の一流品愛用の時期だった。 |