レナウン入社からVAN創業
 
昭和21年、天津から7年振りにふるさと岡山に引き上げた謙介は、焼野原となった実家の土地を全部売り払い、その金でのんびり一年くらい、人生の充電期間として過ごすことにした。
当時のあくせくした世相から考えれば実に楽天的な生活を送っていたことになる。そうして遊び暮しているうちに、大阪のレナウンからうちに来ないかという誘いがかかる。
レナウンとのつきあいは、天津の大川洋行時代にさかのぼる。当時レナウンと大川洋行は大きな取引をしていて非常に親密な間柄だったのである。ブラブラ遊びにも飽きていた謙介は渡りに船と、早速大阪へ飛んでいく。最初の仕事は大阪にレナウン・サーヴィス・ステーションを作ることだった。
レナウン・サーヴィス・ステーションというのは、今でいうマーケット・リサーチのためのパイロット・ショップ。当時のレナウンが、これから何をやるかを見きわめるために順慶町に作ったこのステーションで、謙介は紳士物全般、田中千代さんが婦人物を担当した。それから2年、大阪のサーヴィス・ステーションは初期の目的を達成したと閉鎖。謙介はこのシステムを神戸に持ちこみ、神戸サーヴィス・ステーションを開設。そして神戸のPX関係の素材を入手して、自分のポリシーを思い通りにありとあらゆるメンズ・ウェアを作った。その素晴らしいクオリティの商品は、絶対(当時の)日本では作れる訳がないと評判をとり、ファッション業界の中で謙介は一躍有名人となる。神戸の1年後、謙介は東京本社のレナウン研究室に配属される。
昭和25年から一年間、ここで働いた謙介は、自分の性格上大規模な会社ではやっていけない、ということを痛感し、レナウンをやめてしまう。
そして大阪へ戻り、レナウンで知り合い終世の相棒となった高木一雄と石津商店を作って、本格的にメンズのファッション・ビジネスの世界に足をふみ入れる。
ブランドは"ケンタッキー"。謙介の"ケン"と高木で"タッキー"。当時から謙介の頭には、これから売れるものは"アメリカ的"なもの、というのがあって、迷わずこのネーミングにしたという。
石津商店はどんどん発展し、アメリカ好きの謙介は、いつまでも石津商店なんて古くさい名前じゃ駄目だと思いだし、思い切って社名を変更したのがVANだ。1951年、昭和26年のことである。