(レーシングメイト) の創立秘話

1963年5月鈴鹿サーキットに於いて第1回日本グランプリ自動車レースが開かれたのをきっかけに日本にモータースポーツ熱が俄に加熱し、GTカーやレーシングカーに対する関心が高まってきた。

第1回日本グランプリに出場したレーサーたちの中に、東京のクルマ好きの若者グループがいた。
それは、その日本グランプリの第1回、第2回に出場し、優勝を重ねた式場壮吉と、その親友で後にVANの宣伝部長となった石津祐介、式場の学友の杉江博愛(今の自動車評論家の徳大寺有恒)の3人は他のクルマ好き仲間のレーサーの生沢徹や歌手のミッキー・カーチスなどと、石津や式場の家に集まっては、夜通し車や音楽の話に花を咲かせていたようだ。

その頃、それぞれ自慢のスポーツカーに乗って集まってきた仲間たちのクルマには、英国の「Les Liston」というブランドのカーのアクセサリーが装備されていた。チェッカー・フラッグをシンボルとするこの「Les Liston」ブランドのアクセサリーを買いたいがために、わざわざヨーロッパまで出かけていたようだ。
この仲間たちの中でもとりわけ仲の良かった式場、杉江、石津の3人はこの「Les Liston」のような、本格的なスポーツカー・アクセサリーを日本でも作ってみようではないかと語らっていた。
そしてその後、式場を代表に「Racing Mate」というブランドを1965年頃に立ち上げたのである。

イタリアの名門レーシング・チームであった「アルファ・ロメオ」のチーム・マークであった四葉のクローバーにインスパイアされ、Racing Mateのロゴ・マーク確立された。
そしてこのRacing Mateは、たちまち日本中のスポーツカー・ファンの間で話題となり、クルマ好きたちの集まる所では、この四葉のマークのカーバッジやステッカーを得意気につけた車が、数多く見られるようになった。

その後Racing Mateは製品開発が進み、当時のヨーロッパなどのレーシングマシンが装着していたマグネシュームやアルミ製のホイールの開発に着手していき、試行錯誤の末、オリジナルのアルミホイールなども完成させた。
その人気振りに目をつけた軽金属の大メーカーたちもその生産に追随し、やがてタイヤショップ等の店頭にも並ぶことにもなったという。