後年どこかで熊井戸氏が「石津は、メンクラは自分の雑誌であるくらいに思っていただろう」と言って
いたというが、事実 自ら企画を立案し自ら執筆し、グラビアの撮影となればモデル探しやモデルにポーズまで指示した。男性モデルなどまだいない時代だったので、モデルには当時親しく付き合っていた新劇人の木村功、岡田英次、それに日本で唯一の男性モデルだった菅原文太といった青年をどんどん起用した。

 

男の職業モデルとして第1号の菅原文太が初登場する第5号。
謙介が採用し、暫くはVANと男の服飾専属のように使っていた。
文太が履いているのは当時大ヒットしたVANのカラー・コットン
パンツ。カラフルなノーベルトパンツが飛ぶように売れた。

職業モデルがいなかった頃は、映画や演劇の、俳優がモデルを
務めていたが、男のファッションが活況を呈し出し、男性の
職業モデルも必要になってきた。
そこで1957年に結成されたのが男だけのモデルクラブ
「SOS(ソサイエティ オブ スタイル)」。
当初8人で結成されており、その中には菅原文太や岡田真澄が
いた。
「SOS株式会社ソサエティ オブ スタイルは、現在もモデル・
エージェンシーのトップとして全国的に活動している。

     
 
後年俳優として大活躍する菅原文太の
モデル時代の写真。
隣はVAN大川専務のお嬢さん。